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    • 2012.03.15 Thursday
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      花も散り

      世はこともなくひたすらに


      たゞあかあかと

      陽は照りてあり



















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        南風は柔い女神をもたらした。


        青銅をぬらした、
        噴水をぬらした、
        ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、

        潮をぬらし、
        砂をぬらし、
        魚をぬらした。

        静かに寺院と風呂場と
        劇場をぬらした、




        この静かな柔かい女神の行列が
        私の舌をぬらした。












        半獣

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          半獣――。



          実に野蛮な言葉である。
          しかしながら、私は随分過去からこれを見逃すわけにはゆかなかった。




          人間とは愚かである。
          人間とは下等である。
          人間と獣と、いったいナニが違うというのだろうか。 「人間には誇りがある!!理性がある!!」
          そう、叫ぶお偉方がいる。バカである。
          「お前さぁ、動物にだって動物としての誇りがあるだろ??野生動物の生きざまを知らないのか??」
          「犬は本能だけじゃないだろ??」
          私はそう言いたい。



          世を賑わす『卑劣な罪人の罪』と、日々、私達が『ある名のもと、犯している気づかぬ罪』と、いったいどこが違うのだろうか。
          子供の頃からこの様なことばかり、考えてきた。最近気づいたのだが、だから、やはり、もしかして私はバカになってしまったのかもしれない。
          しかし、私は気づくのが遅かった―。
          確かに私はバカである。

          なんだか懐かしい風が吹いてきたようだ。
          淡い香りが、川ッペリから漂ってきた。
          去年、私はある執筆家に恋をした。彼こそ、この様な『バカ論』を綴る天才であると私はいまだに強くそう思うのだ。つい爆笑してしまう。実に楽しい。そして深い共感…。

          しかしながら、バカと天才とは紙一重であるし、バカは、100回のうち1回ぐらいの確率で、とんでもなく人の目を惹く才を出す。
          また、バカはバカでも様々であるのだ。バカの世界にすら非情にも上中下があり、バカは少し偉いバカに、そこでもまた、「バカ」と蔑まれ、劣遇されてしまうのであるから、なんとも世の中というものは非情である。
          しかし、上記のようにバカを「バカ」と蔑む、偉いバカが実は一番のバカなのだ。これは事実である。
          そもそもバカな自分の、そういう行為に気づかぬこと自体、バカであるし、また、本来、バカというものは自分を「偉い」と勘違いしているのだ。
          偉いバカに「バカ」と蔑まされた下の方のバカ達に、陰でこそこそと「あいつはホントにバカだなぁ」と、日夜、悪口を言われている偉いバカ達であるのだから、やはり余程のバカであるのだろう。
          ま、私もバカであるからあまり人のことは言えないが。

          話がとんでしまった。




          『意思』について私はそこから考えを馳せ、あれこれとよく悩み考える。

          意思――。



          例えば、意志が現世を抱いて深い海の底に沈むとすれば、一つの小さな島の樣で、前後二つの、和合しない大海が、その岸辺に寄せ合って、互いに噛み合いをする―。
          私達の魂の内は、実に騒々しいものだが、喩えれば無言―、神秘の星――があって、その上に住んで居るので、それが甘く、統御してゆくのだ。
          これは、純粋無垢の情緒をもって感じられる世界である。
          無言の星が神秘の夜空に輝くと、運命もそれから出た光線の一部に過ぎない。

          私達を制限するものは、運命である。宿命ではない。私達が日々、骼になる時まで翻弄し振り回されているものは、運命であるのだ。
          私達が獣的であれば、運命も獣的となり、私達が霊的となれば、運命もまた霊的となる。これが、神秘的自我の發現する工合である。

          自我が無言のうちに最も發揮させられるところから、メーテルリンクは悲劇に、静的悲劇を發案した。芝居を少しも動作を加えないで、心持ちばかりで見せるのである――。これは畢竟空想に過ぎないとしても、例えば渠の戯曲には、この表象的作法が至るところに表れている。

          話が少しばかり脱線してしまったせいで、自分がいったいナニを綴ろうとしていたのか、わからなくなってきた。



          今回はこれで終わりにしようと思う。

          存在と甘美

          0
            南が吹いている






            海がある





            あなたの手のひらの
            海がある







            かもめの胸が
            光りに震え、
            わたしの胸は
            醸された赤酒のように
            黴の花を跳ねのける






            あなたは水面で
            海風にあそばれる














            さらりさらり 
            なんの触る音もなく
            地を引き摺る音もなく
            烟り上を這う、青い濡れ色の魂のように、
            苺の実の汁を吸いながら
            海水で湿った唇を
            のがれのがれ――、


            逝く――

























            落日

            0














              -第一章-
















               寺院は全く空虚である。



               贄卓の上の色硝子の窓から差し入る夕日が、昔の画家が童貞女の御告の画に描くように、幅広く素直に中堂に落ちて、階段に敷いてある、色の褪めた絨緞を彩っている。
              それからバロック式の木の柱の立つているレクトリウムを通って、その奥の方に行くと、段々暗くなって、そこには煤けた聖者の像の前に灯してある、小さい常燈明が、さも意味ありげに瞬している。
              一番奥の粗末な石の柱の向こうは、真の闇になっている。


               そこに二人は坐っている。
              その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着ている薄い茶色のジャケットを、分厚く出来た、黒い樫の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるようにして坐っている。娘の被つている帽子の薔薇の花が、腰を掛けているベンチの背中の木彫の天使の腮(あご)をくすぐると見えて、天使は微笑んでいる。
               フリッツという高等学校生徒は、地の悪くなった手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、丁度小鳥をでも握っているように、柔かに、しかもしっかり握っている。
              (続く)












              愁い

              0
                風もある







                旅人もある














                沈んでゆくこの心は
                ほのかな化粧づかれに
                遠い母をおもう



























                わたしの逝く道は
                いつも哀しい雨が降る

















                冷たい霧の火を
                撒き散らす







                青春の鞭

                0






                    


                  威嚇者の爪は
                  妙に曲って
                  かたく、黒い。































                  やわらかい濡葉の下を
                  こごみがちに迷つて、

                  鳥の毛の古甕色(こがめいろ)の、
                  ワタシはそうして
                  悲しい鞭にうたれて逝く――









                  ただ、――

                  ワタシは朦朧として
                  無限と連なっているばかりで、

                  苦痛も 慟哭も、
                  哀れな世の不運も、

                  拠り処のない風の苦痛に
                  過ぎなくなってゆくのであった。










                  もう ようやく、
                  永遠の存在の端へ
                  括りつけられた。









                  空気を越え、
                  万象を越え、
                  水色の奥秘へと響く――













                  そんな青い春であった。










































                  解読について

                  0
                    文書を解読するのは、言うまでもなく、単に言葉や文章を理解するためでなく、そこに盛られた思想や観念をこうして理解するためである。

                    すべてがそう簡単に徒手空拳で理解出来るものではないので、理解の用具を提供するものが実は、言葉や文章そのものだったりするのだが、外国のものであったり、また、あまりに専門的な術語に基くものであったりすれば、この理解の用具の使い方自身を又理解するための用具が必要となる。

                    こうした理解の用具・技法が解釈なのであって、理解はいつもこの解釈を通じて行なわれるのだ。
                    フィロロギーとは、こうした言葉や文章が持っている思想の解釈の技法を伝承して、学問に仕上げたもののことであり、狭い意味に於ける「解釈学」いわゆる、Interpretationswissenschaft Hermeneutik を、その哲学的核心としているのである。

                    なぜ狭い意味に於けるというかと言えば、この解釈学はまだ言葉の説明という、直接目的を、離れていないからである。
                    さらに言うと、最も狭い意味で解釈学という言葉を使えば、言葉や文章の文法学的説明が、解釈の事になるのだ。






                    言葉の説明という、直接目的から離れないこの狭義のフィロロギーこそ、解釈学なのではないだろうか。










                    観念論

                    0
                      観念論が最も近代的に自由主義的形態を取ったものが、この精巧に仕上げられた解釈哲学に他ならない。

                      露骨な観念論という髑髏(どくろ)は、この自由主義という偽装によって、温和なリベラルな肉付きを受けとるのだ。

                      だが、それだけ自由主義が観念論の近代文化化された被服であるということが、証拠立てられることになるのである。







                      このような類いの考察は、実に愉しい。

                      愛する萩原朔太郎

                      0
                        センチメンタリズムの極致は、
                        ゴーガンだ、ゴッホだ、
                        ビアゼレだ、グリークだ、狂氣だ、ラヂウムだ、
                        螢だ、太陽だ、
                        奇蹟だ、耶蘇だ、死だ。




                        死んで見給え
                        屍蝋の光る指先から、
                        お前の至純な靈が發散する。
                        その時、お前は、ほんたうにオメガの、青白い感傷の瞳を、
                        見ることができる。
                        それがお前の、本当の、人格であった。

                         


                        なにものもない。
                        宇宙の『權威』は、人間の感傷以外に
                        なにものもない。





                        手を磨け、手を磨け、
                        手は人間の唯一の感電體である。
                        自分の手から、電光が放射しなければ、嘘だ。






























                        覚醒に侵された狂人の叫びは、
                        圧倒的權力者に陵辱され続けてきた幼花魁の脳髓をもまた侵食し爆発的な不燃物となりその片隅に、腫瘍化され続けてゆく。



































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